大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和54年(オ)579号 判決

上告人

門内千尋

外二五名

右二六名訴訟代理人

宮武太

相馬達雄

鎌倉利行

外一〇名

被上告人

右代表者法務大臣

坂田道太

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人宮武太、同相馬達雄、同鎌倉利行、同浜本恒哉、同奥中克治、同小沢礼次、同高野裕士、同仲武、同渡部孝雄、同植田勝博、同栗原信、同小川眞澄、同松葉知幸の上告理由第一及び第二の(一)について

記録に現れた本件訴訟の経過に照らせば、原審の訴訟手続に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。

同第二の(二)について

原判決に所論の違法のないことは、原判文に徴して明らかである。論旨は、独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第二の(三)及び(五)について

上告人らは、本訴において、政府が経済政策を立案施行するにあたつては、物価の安定、完全雇用の維持、国際的収支の均衡及び適度な経済成長の維持の四つがその担当者において対応すべき政策目標をなすところ、内閣及び公正取引委員会は右基準特に物価の安定という政策目標の達成への対応を誤りインフレーションを促進したものであつて、右はこれら機関の違法行為にあたり、被上告人はこれによる損害の賠償責任を免れない旨主張するが、右上告人らのいう各目標を調和的に実現するために政府においてその時々における内外の情勢のもとで具体的にいかなる措置をとるべきかは、事の性質上専ら政府の裁量的な政策判断に委ねられている事柄とみるべきものであつて、仮に政府においてその判断を誤り、ないしはその措置に適切を欠いたため右目標を達成することができず、又はこれに反する結果を招いたとしても、これについて政府の政治的責任が問われることがあるのは格別、法律上の義務違反ないし違法行為として国家賠償法上の損害賠償責任の問題を生ずるものとすることはできない。結論においてこれと同旨の原審の判断は、結局、正当として是認することができる。論旨は、違憲をいう部分を含め判決の結論に影響のない点を捉えて原判決を論難するか、又は独自の見解に基づいて原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。

同第二の(四)について

所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

同第二の(六)について

所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(谷口正孝 団藤重光 藤﨑萬里 本山亨 中村治朗)

上告代理人宮武太、同相馬達雄、同鎌倉利行、同浜本恒哉、同奥中克治、同小沢礼次、同高野裕士、同仲武、同渡部孝雄、同植田勝博、同栗原信、同小川眞澄、同松葉知幸の上告理由

第一、(本件請求について)

上告人等が、主位的に主張するところは、被上告人国の特定的具体的な諸行為によつて上告人等が損害をうけたのであり、被上告人は、右損害につき、賠償責任があると云うにある。そして、その損害賠償請求権発生の根拠法そして、国家賠償法第一条第一項をあげ、同法所定の構成要件を充足する具体的事実を特定した。上告人等が問題としているのは、経済政策一般についてではない。たとえて云えば、公定歩合は昭和四七年六月二四日以降4.25パーセントと云う低水準にあつたが、これが、五パーセントに引きあげられたのは、昭和四八年四月二日になつてからであり、その後、同年五月三〇日に5.5パーセント、同年七月二日に六パーセント、同年八月二九日に七パーセントと逐次引きあげが行われた。

しかし乍ら、当時、高度成長インフレ型財政に加えて、外貨の流入は、いちじるしく、為替相場取引による差益金等と相俟つて、過剰流動性が顕著となつており、斯る経済状勢のもとにおいては、すくなくとも、昭和四八年一月当初までに、右公定歩合は、七パーセント以上に当然引きあげておかなければならなかつたと云えるのである。また、当時、鋼板、棒鋼等について不況カルテルが認可されていたが、通産省「通産統計」によつても昭和四七年八月には、景気は、明瞭に回復局面に入つており、日本銀行総裁も、この時期に、右カルテルを解消すべきであると申し入れているにも拘らず、結局、右カルテルは、昭和四七年暮まで実施されたのである。そのため、基礎的原材料供給の対応を遅らせ、それによる需給不均衡から消費者物価上昇を異常に招来したのである。即ち、右カルテルは、当然に、昭和四七年八月までに解消しておかねばならなかつたと云えるのである。このように、上告人等は、被上告人国の違法な行為を特定して主張しているのである。だから、裁判所としては、先づ、これらの行為、即ち、公定歩合の据置きやカルテル不解消が、違法であつたか否かを各般の証拠によつて審理しなければならぬ筈である。違法であるとの判断が下される場合もあろうし、適法であるとの判断が下される場合もあろう。そして、違法であると判断された場合には、更に、進んで損害の有無及び右違法行為と右損害発生との因果関係も追及されることになる。上告人等は、右国家賠償法第一条第一項の構成要件事実全てにつき詳細にこれを論じ、上告人等の本件損害賠償請求権が正当に肯定されるべきであり、かつ、それは、まさに司法救済をうけうるべきものであることを主張した。

従つて、問題を平易に云うと、特定具体的な不法行為の存在とそれに対する損害賠償請求である。そこで、右訴をうけた裁判所としては、先づ、上告人等の主張する被上告人国の行為内容を明確に把握する必要があり、その上に立つて法律判断をなさなければならない筈である。

しかるに、第一審裁判所はもとより第二審裁判所も、本件事案を正確に理解し、証拠調べを行なうと云う態度を当初より示さず、従つて、上告人等の主張には直接触れることなく、抽象的に経済政策一般を論じ「経済政策は国の内外の経済状勢を把握認識し、この認識の上に立つて、種々の政策手段を組合わせて、決定さるべきものであるが、その認識判断は決して一義的になしうるものではない」「これらの認識判断は、経済専門家の間でも、しばしば意見の分れるところであつて」「個々の具体的場合にいかなる手段方法によつて(経済)政策を樹立すべきかについては実定法上の規定がなく、政策決定の適法違法を審査するための個別的な法規範は存在しない」等としている。

このことを比喩的に述べるならば、或る特定の医療過誤を主張して、その損害賠償を求めている場合、裁判所が、その過誤には直接言及することなく、証拠調べもなさず、当初より、審理を放棄して、単に、医学一般の何たるかを抽象的に論じることに終始しているのに酷似していると云わねばならない。

これは、本件の如き、又は、医学の如き、極めて専門的知識に依拠して、はじめて、事案の真相を理解しうる場合に裁判所が屡々落ち入る危険であり、怠慢である。事案を理解することなくして判断の可能であろう筈はない。本件についてみても、上告人等が主張する行為の違法性について、裁判所は、「成立に争いのない甲第二四号証、当審証人正村公宏の証言中には、右主張に符合するような供述、記載が存するけれども、さきに説示した政策目標の競合性、各種政策の多様化、弾力化等よりみれば、自由主義経済体制のもとにおける右の見解は、余りも単純化ないし図式化された一義的な見解であり」と述べているにとどまり、辻褄合せの作文に堕してしまつている。

斯くの如く、第一審裁判所も、第二審裁判所も事案の内容を理解せず、または、理解しようとする努力をなさず、従つて、右裁判所による法的判断そのものは、本件事案に即応したものとはなつていないと云つてよい。

しかし乍ら、今日、医事紛争に対する司法救済がすゝんでいる如く、医療の過誤についても、鑑定その他の証拠調べを駆使すれば、十分に、当該事案の内容を分析理解することができ、かつ、治療のあるべき客観的規準をも把握しうるのである。そして、その上に立脚して適正妥当な法的判断が可能となりうるのである。本件についてみても、上告人等は、前述の如く、「公定歩合は、昭和四八年一月はじめまでに七パーセントにすべきであつた」「鋼板カルテル等は、昭和四七年八月末までに解消すべきであつた」と主張してきたのである。経済学は、社会科学である。医学は自然科学である。ともに科学なのであつて、右科学が解消しえている一般的規準を全く無視逸脱している行為は違法な行為となる。

違法性が実定法令違反のみを指すものではないことは、今日の通説であつて、疑問の余地がない。

そこで、本件についても、現代の経済学的規準に照して上告人等主張にかかる諸行為が違法なものであつたか否かを、とり急ぎ証拠調べする必要があつた筈である。そして、右証拠調べの上で、①違法な過誤はなかつた。②違法な過誤があり、救済さるべきである。③違法な過誤は存在するが統治行為論その他の理由から救済になじまないの三種の判断が可能となる。第一、二審裁判所は、右三種のうちのいずれの判断もなしていないのである。要するに、なによりも先づ、手続的な面において、上告人等の訴権を当初より事実上否定してしまつており、憲法第三二条に違反していると云わざるを得ない。

更に、手続面において、前述のとおり、第一、二審裁判を通じて一度も釈明権の行使はなかつたが、本件の如き、複雑な事案において、裁判所が、仮に違法性の有無を問題の焦点と考えるならば、当然その旨の釈明権を行使すべきであつて、同行使にいちじるしい懈怠があり、そのため、上告人等の主張を十分に理解し得ず、明らかに判決に影響を及ぼす結果となつてしまつたと云える。斯のような次第であるから、とりもなおさず、原判決中の法律判断が不当な結果となり、明らかに判決に影響を及ぼす、ことになつているのである。

要するに、原審裁判所は、上告人等の主張を十分に理解しないまま、かつ、右理解がないため、適正な証拠調べも行わず、結局、固定観念にとらわれて、事案に即さない誤つた判断に到達していると云わざるを得ない。

第二、(上告理由について)

(一) 民事訴訟法第一九一条第一項違反。最判昭和三一年五月一五日民集一〇巻五号四九六頁「原判決は上告人の立証によつては増額を相当とする額を判断し難いと判示しているが、引用の鑑定の結果によれば、一応客観的賃料額の立証があるのであり、もし、その点の立証が不十分なれば、釈明権を行使してその立証を促すべきである」、最判昭和三九年九月一八日裁判集七五号二五五頁「原審は当事者に対し、右の点を釈明のうえ、果して右連盟として本件債務の負担能力があるか否かを判断すべきにかかわらず……釈明権不行使・審理不尽の違法を冒し……」、最判昭和四三年一月一八日判時五一一号四四頁「記録に徴するときは、訴状において、被上告人はAがほしいままに本件物件を持ち出して被上告人に売却することの情を知つていた旨主張をしていることが窺われるから、その主張の趣旨を釈明して審理を尽す余地もある……表見代理の成否を審理しなければ、原審としては、本訴請求の当否を決しえなかつた……」、最判昭和四三年(オ)第一二六七号、同四四年六月二四日「当事者の主張が法律構成において欠けるところがある場合においても、その主張事実を合理的に解釈するならば、正当な理由として構成することができ、当事者の提出した訴訟資料のうちにも、これを裏付けうる資料が存するときは、直ちに、その請求を排斥することなく、当事者または、その訴訟代理人に対してその主張の趣旨を釈明したうえ、これに対する当事者双方の主張立証を尽くさせ、もつて、事案の真相をきわめ、当事者の真の紛争を解決することが公正を旨とする民事訴訟制度の目的にも合するものというべく、かゝる場合、こゝに出ることなく当事者の主張を不明確のまゝ直ちに排斥することは、裁判所のなすべき釈明権の行使において違法があるものと云うべきである」。

すでに述べて来たように、本件事案は経済学と深くかかわりあつているのであり、その限りにおいて、裁判所にも多くの理解し難い点があつた筈である。とくに、経済政策実施に関連した国の諸行為につき、それが違法であるか適法であるかの判断規律については、その選別に困難が伴つたと思われる。

そこで、裁判所としては、当事者の主張整理、立証整理を促すため、適宜、釈明権を行使すべきより強い義務と必要性があつた筈である。

上告人等は、国家賠償法第一条所定の構成要件事実を全般にわたつて主張しなければならないから必然的に、その主張は広範囲、多岐にわたることにならざるを得ない。裁判所としては、争点ごとに当事者の主張、立証を整理してこそ、はじめて、事案を把握できるのである。しかるに、原審裁判所は一度として、釈明権を行使したことがない。

頭書の民事訴訟法の条項及び判例は、事案整理のための釈明権行使がいちじるしく不十分な場合、審理不尽の違法を免れ難いものとしている。

本件において、上告人等は十分な主張を展開し、証人調べの申出をなした。しかしながら、原審判決事実摘示にもみられる如く、上告人等の主張は十分に整理されていないと云わざるを得ない。上告人等は、例えば、カルテル政策一般をのべているのではなく、特定の不況カルテルを問題とし、その違法性該当事実を特定して主張しているのである。裁判所は、当事者の主張さえ、このように理解していないのであるから、必然的に証人調べをも行なおうとしなかつたのである。

正村証人取り調べのみで、証人調べを打ちきつているが、本件個々の行為につき、その違法性立証のための証人調べを引きつゞき行うべきであつたろう。

まさに、右諸行為の違法性こそが問議されているにもかかわらず、証拠調べは十分にこれを行わず、その上で、「経済政策について適法違法を判断するための法規範たるべき具体的客観的規準は存在しない」旨判示しているのである。審理不尽の違法が存する故以である。要するに、原審は、第一に、経済政策は統治行為であつて、司法判断になじまないと決めてかかり、第二に、本件諸行為については、些細に主張を分析することもなく、単純簡明に一括して経済政策ときめつけてしまつたのである。

そのような、審理の態度であるから、上告人等に主張立証を更に促す必要など考えてみなかつたであろう。

そして、この審理不尽の結果、原審裁判所は、独断と偏見の上に、「経済政策には規準なく而も、上告人等が問題とする諸行為は全て高度な統治行為である」として上告人等の本件請求権を否定したのであるから、右審理不尽の違法は明らかに判決に影響を及ぼしているのである。

(二) 民事訴訟法第一九一条第一項違反について。

判決書中には、「事実及び争点」を記載しなければならない。そして、上告人等は、国家賠償法所定の不法行為、構成要件事実を具体的に特定して主張した。

「事実及び争点」は当事者の弁論から聴取した事件の事実的内容を要約して記載する部分で判決理由における事実認定及び法律判断の基礎となるものである。判決事実の記載は裁判所が当事者の弁論を完全に受納して審理を尽したことの証明となるのである。ところが、上告人等が特定して具体的に主張している不法行為事実については、殆んど触れることなく、単に、①大型予算の作成と公定歩合変更の行政指導とか②国土総合開発法案等の閣議決定及び列島改造構想の発表とか③石油輸入量の予測及び石油供給制限の決定とか④不況カルテルの不解消とか問題となつている不法行為の標題をかかげるのみである。

云い換えれば、交通事故損害賠償請求訴訟において、原告が、日時場所などにわたつて詳細に不法行為の事実を特定しているのにもかかわらず、判決書中には、単に「交通事故」の主張があつた旨のみを記載し、その上で、当該請求権を否定しているに等しいのである。だからこそ、原審判決理由は、混乱せざるを得なくなつているのである。即ち、或いは、統治行為論に依るかの如く、或いは、統治行為論に依るまでもなく、自由裁量行為とするかの如く、或いは被侵害権利の存否を論ずるかの如く、混乱が生じている。

その原因は、法によつて判決書に要求せられている「事実及び争点」の記載が欠缺しているところにあると云わざるを得ない。この事は、(一)に述べた審理不尽の違法と表裏一体をなすものであつて、本件審理を特徴づけている。

いずれにしても、右欠缺は、これにつづく、事実の認定及び法律の適用を混乱に導き、明らかに判決に影響しているのである。

(三) 憲法第七六条第一項、同八一条、裁判所法第三条違反について。

原審判決は、苫米地判決をそのままに引用して、所謂統治行為論を採用している。

上告人等が主張する被上告人の所為について、それが同判決に云う統治行為の概念に包摂されるものか否か自体問題ではあるが、それはともかく、我が国憲法は、その実定法上、所謂統治行為を認容するものではない。この点については、第一審における準備書面においてすでに詳説したところである。即ち、日本国憲法は、統治行為なる概念の介入を拒絶することこそを、まさに、その誕生の理念とした筈であつた。

日本国憲法八一条、七六条、三二条、一七条は、まさにその原理を規定していると云つてよい。

元来、統治行為の概念は、一義的でなく、場合によつて「行政行為としての自由裁量行為」の意に混同されて用いられている。しかし、ここに「統治行為」とは違法・適法の判断がなしうる(従つて法規裁量行為を含む)にもかかわらず、それが「高度に政治性」を有するがために、司法判断に服さないとされる行為を云うものと考える。もとより、斯る意味における「統治行為」は認められないのである。統治行為には政治行為としての側面と法律的行為としての側面があり、その法律的行為としての側面は全て司法判断に服するものである。日本国憲法は厳格な法治主義の原則のもとに、反憲法的国家行為はこれを全て無効としている(第九八条)。そして、第八一条、第七八条は裁判所に国の行為の法適合性について最終審査権を与えているのである。

原審判決は三権分立の原則から、単純に制定法上根拠をもたない統治行為肯定を導き出すかの如くであるが、日本国憲法に規定される三権分立は他の複雑な諸要請によつて変形されており、第八一条はそれ自体、当初より三権分立を超える面として憲法上措定されているのである。即ち、現行憲法は、その最高法規性を担保し、基本的人権を擁護し、国家行為の法適合性を確保するために司法積極主義を採用しているのである。

だから、政治的影響の大きい行為であり、その行為の政治的側面が選挙によつて批判されるであろうと云うことは、決して、その行為の法律的側面について、純法律的判断が不可能であると云うことではなく、その行為の政治的当否の批判とは全く別な法律的判断が排除される理由にはならない。

例えば、衆議院を如何なる事態のもとにおいて解散するのが妥当であるかは、政治的判断にゆだねられているにしても、解散の方式そのものが憲法の定めるところに適合して行われたか否かは、一切の政治的評価を排除して判断することが可能であり、また、判断しなければならぬのである。

これがまさに憲法八一条の法意である。原審判決のように、なんらの限定をおくことなく、統治行為を認めることは、やがては憲法の自殺を招来するであろう。統治行為概念を否定することによつておこりうる害悪と同概念を認容することによつて、却つて、おこりうる害悪といづれが大であろうか。もし、仮に原審判決に云う如く、統治行為について、その法的判断を放棄するのであればそれら統治行為に関して、そもそも法規制をなさなければよいのである。

それらについても法規制が現実になされていると云うことはそれらの行為と雖もなんらかの法的判断に服することを前提としているからこそである。

選挙の批判に委ねられているのは、事柄の政治的側面だけであつて法的側面については、選挙の批判に委ねることを必ずしも必要としていないのである。即ち、法的側面については、法に照して、一義的に判断がなしうるのであつて、多数決によることを要しない。

ところで、我が国の判例上も、いまだ、統治行為肯定論が疑いもなく、定着しているとは云えない。

所謂砂川判決も「一見、極めて明白に違法の場合は全ての国家行為につき司法判断がなしうるとし、更に、条約も違憲審査の対象になりうる」と判旨している。苫米地判決は、衆議院の解散をめぐる案件であり、まさに法的判断が可能であつた。その意味において、砂川判決は憲法の解釈を誤つたものであつた。フランス、ドイツ、アメリカ、イギリスにおいても、今日、法の支配が十二分に貫徹していることを知つておくべきであろう。

原審判決におけるこのような統治行為肯定論の採用は、本件判決結果に明らかな影響を及ぼしている。

(四) 国家賠償法第一条第一項違反について。

上告人等は、くり返し述べてきたように、被上告人における本件不法行為を国家賠償法第一条第一項の構成要件に即して主張した。

その際、一番の争点となつたのは、違法性の問題であつた。茲に、違法性とは、広く公序良俗に反し、又は裁量権の濫用にあたる場合を包含する(最判昭和三八年六月四日民集一七巻六七〇頁、東京高判昭和四五年八月一日判時六〇〇号三三頁、東京高判昭和三〇年四月一九日下民集六巻四号七五四頁。)そして、被害者は、加害行為が存在することを立証すれば足り、違法であることまで立証する必要はなく、国又は公共団体側が行為の適法性について主張立証しなければならないのである(東京高判昭和四五年八月一日判事六〇〇号三三頁、東京高判昭和三五年九月一二日下民集一一巻九号一八八五頁)。ところで、本件において、被上告人側からは、右適法性についての主張・立証は皆無であつた。

被上告人は、単に、本件加害行為について、違法・適法を判断すべき実定法規が存在しないと主張するのみであつた。

すでに述べた如く、違法判断は、実定法規の存在を前提とするものではない。斯のように解する時、上告人等の主張は国家賠償法第一条第一項の構成要件を充足し、本件請求権の存在は肯定せられるべきものであつた筈である。しかるところ、原審裁判所の判断は、同法に違背しており、明らかに判決に影響を及ぼしていると云わざるを得ない。

(五) 経験則違反について。

そもそも、原審裁判所の判断は、本件行為(作為、不作為)につき、①適法・違法の判断をなしうるけれども、統治行為なるが故に司法救済になじまないとするのか②全くの自由裁量行為なるが故に適法・違法の問題がおこらないとするのか、明瞭ではない。しかし乍ら、右判決は、本件行為について、それが、行政府の自由な、裁量行為であるし、かつ、また、客観的規準も全く存しない旨説示している。

たとえ、「自由主義経済」体制を前提としてみても、今日の経済政策に全く客観的規準がなく、行政府が全く自由に実施しうるものと解することができるだろうか。即ち、経済状勢の如何にかかわらず、公定歩合は、自由に定めてもよく、不況カルテルも自由に実施しても良いのだろうか。今日、数量経済学は特段に発展し、種々のデーターが用意されて、国の経済を管理運営しているのである。そして、国の経済の運営が一定の方向性をもたずになされていると云えるだろうか。現代資本主義国における経済運営の基本理念は①雇用の安定②物価の安定③対外収支の均衡④適度な経済成長の維持である。西ドイツでは、右基本理念が実定法にさえ、とり入れられているのである。右理念を達成するために政策が追随していくのであるが、財政・為替・金融政策等がポリシーミックスされる。

医師に対する信頼のもとに医療が行われるものとしても、それは、全く自由に行われるわけのものではなく、客観的な医療規準があり、現代医学の水準がそれを定立していると云つてよい。

経済政策施行についても全く同様である。現代経済学の定立した客観的な政策規準があり、これに従うことを必要とする。医師は、医療を行える資格を有しているのであつて、医師だからと云つてどんな治療方法を施しても良いとは云えない。

同様に、行政府は経済政策を有効に実施する法的地位を与えられている(選挙などの結果によつて)だけであつて、どのような施策をするかの余的自由を与えられているわけではない。とくに、右施策の真実の立案施行担当者は、選挙によつて選ばれる議員などではなく、むしろ、選挙とは関係のない一群の官僚と云える。だから、経済政策立案施行の是非は国民の政治的批判にまてば良いとか、選挙によつて、その政策担当者を交替させれば良いとは云えない面がある。

斯くて、「経済政策立案施行が、選挙された議員や官僚群をもつて、組織される行政府に完全に白紙一任され、その是非のチェックは選挙や政治批判による以外ない」という原審の事実認定は暴論であり、経験則に違背する。

経験則は法規そのものではないが、正当な事実認定は経験則によらなければなしえないし、経験則違背の事実認定は立証責任の原則に違背してなされた事実認定と同じように、適法確定された事実とはいえないから、経験則違背も民事訴訟法第三九四条に云う法令違背であつて、上告の理由になると云わねばならない(最高判昭和二四・九・六民集三巻三八三頁)。尚、経験則違背については、経験則を一般に知られている経験則と専門家のみに知られている特殊な経験則とに区別して両者のいずれに違背したかによつて取扱を異にすべきいわれはないと云わねばならない。上告人等は、右経験則について十二分な主張と立証をなしたにもかかわらず原審裁判所は、それを受納しようとする努力すらなかつたと云えよう。

右違背は明らかに判決に影響を及ぼすものであつた。因みに、原審判決は「郵便貯金者だけではなく、銀行預貯金者など全ての預貯金者に対し、物価上昇率に見合う減価保障をしなければならないことになつて、その数額尨大となり、結局は、税負担にはねかえり、同じことのくりかえしとならう」と述べている。この判旨は、上告人等の主張に対する無理解を示している好例であらう。上告人等の主張は、「郵便貯金、銀行預金はもとより、所謂タンス貯金に至るまで、全ての預貯金につき物価上昇に見合う減価が発生するのは当然である。

しかし乍ら、問題は右減価をもつて、その預貯金保有者に減価同額の損害が発生したか否かにある。

もし、仮に、資産家が一方において、預貯金を保有し、他方において、株券又は、土地などの資産を保有していたとするならば、全く同一の経済政策行為(例えばインフレ政策)を縁由として、一方の預貯金資産は減価し、他方の土地資産などは増価する。

結局、資産保有形態の如何によつて、右増価分が減価分を凌駕する場合がおこりうるのである。一般的に云うならば、所謂資産家階層に属する人達について右現象がみられる。

これに反し、上告人等全ては、本件郵便貯金以外には若干の家財道具を有するのみで、他に資産は皆無である。

従つて、本件物価上昇によつて、上告人等の得たものは、自らの唯一の資産たる郵便貯金の減価のみであり、結局、その資産について、右減価同額の損害をうけたことになり、これに対する補償はない(憲法二九条第三項)。上告人等が求めている「損害」請求は、右の意味におけるものであつて、郵便貯金者と雖も同人が他に資産を保有し、その資産につき増価分が認められるときは、その者について、同人が保有する資産総体としては結局、損害発生は認められない理となる。上告人等の主張は、預貯金目減り=損害と云うわけでは決してないのである。財産としては、預貯金しか保有していない人達、この人達を仮に「庶民」という言葉で表現するならば、我々が、強く損害賠償請求を求めているのは、「庶民」貯金減価損害賠償請求なのである。

そして、経済のメカニズムを些細に検討すると、実は、「庶民」貯金減価分の総体が、そのまま、「資産」階層(預貯金以外にインフレヘッヂをするだけの土地、株券など他の資産保有する人達を仮に、このように表現する)の資産増価分の総体となつて顕現するのである。即ち、「庶民」、預貯金減価分の総体=「資産階層」資産増価分の総体という等式がなりたつのである。被上告人の本件各所為によつて、「庶民」は、いわれなく、その資産(預貯金)を収奪され(減価)、一方、その収奪されたものが、そつくりそのまま「資産階層」の資産増価になつて現われる。しかして、庶民には、なんらの補償措置もないのである。西ドイツでは、斯る経済現象を公用徴収に準じ、庶民に対する補償措置が講じられている。西ドイツ以外の各国において、預金減価に対しインデクセーション措置がとられているのも同じ理に由来すると云えよう。而も、ここで注意しなければならないのは、「庶民」の貯金の性質とその零細性である。右貯金の性質は、社会保障の立ち遅れに起因する「老後のため」「病気治療のため」「子女の教育資産として」等々である。生活必用資金としてのストックである。

そして、統計によれば、庶民一世帯当り約二〇〇万円の零細なる額である。従つて、本件減価の如きは、「庶民」の生活に対し決定的な打撃を与えるものと云つてよいのである。このような生活打撃=減価が国の違法な行為によつて発生したものとすれば、これを補償又は賠償しないで良いと云う理由はどこにも見出し得ないであらう。税負担によつて、はねかえつてくる等という理論は到底肯定しがたいのである。それは、税体系の問題であつて、右資産階層の増価分を税徴収技術によつて吸収した上、右庶民の減価分に充当すればよいのである」と云うにあるのである。原審裁判所は、右上告人の主張につき審理不尽のため、極めて無理解であつたと思はれる。

(六) 郵便貯金法第一条、第一二条二項違反について。

本件訴訟は、主位的には、国家賠償法第一条第一項に基き、提起されたものであつた。そして、同法に云う「違法」とは、必ずしも、具体的な「権利侵害」を要件としないことは、すでに通説であつて提言の必要はない。しかし乍ら、被上告人は、くりかえし、「上告人等の如何なる権利を侵害したのか」主張してきたのであつた。

右主張自体の誤りであることは明白であるが、上告人等は、自らが主張する「違法性」を更に明らかにするため、「経済生活安定権」を説いたのである。この間の理論については、上告人方準備書面において詳述せるところである。要するに、憲法第一一条、同一三条、同二五条第一項第二項、同二九条第一、三項の諸規定は、国民がその経済生活面につき、国から十分な保護をうけるべき地位を有することを確認したものである。国民の基本的人権と云うも、帰するところ、その最も重要な局面は、自由権にもまして、生存権であろう。生きていくことなくして、自由権もまた有り得ない。種々の自由権は具体的な権利であつて、この憲法規定をうけて、憲法以下の各法令もまた自由権保障に特段の配慮を行つているのである。生存権も、また、具体的に保障された権利と云うべきである。ただ、その保障される生存の程度については、国の経済水準に依拠せざるを得ない面はこれを否定しない。しかし乍ら、そのことは、生存権が、具体的に保障された権利であることと相矛盾するものではない。

ところで、「庶民」にとつてその経済生活(生存)を支えるのは、定期に獲得される収入(例えば、給与)と右収入のうちより、ストックされた資産(例えば、本件預貯金)との二つである。このうち、「収人」については、種々の保障施策が法的に講じられている。

即ち、雇用保険法、所謂失対法、各種年金法等々、このようにして、国民各人に定期の収入を保障し、以つて、経済生活に破綻なきよう配慮を加えているのである。憲法二七条第一項で勤労の権利を保障するのも、同二八条で労働三権(労働条件の維持改善――収入の増加)を保障するのも同趣旨によるものであつて、「庶民」に、その時々のフローたる「収入」を保障するためのものである。

ここで、看過してはならないのは、「庶民」の経済生活を支えるために不可欠であるもう一本の柱――資産ストック(預貯金)の保障である。「庶民」にとつて、不時の病、子女教育費の不足、老後の貧困等は、その経済生活(生存)を破滅させるものである。そのため、「収入」以外に「資産ストック」を安全確実に保有することが、庶民の経済生活にとつて、極めて重要である。

ところが、この資産ストック保護のための法制度の完備は甚しく立ち遅れていると云わざるを得ない。郵便貯金法第一条、第一二条二項等は、その稀有な例となつているのである。憲法第二九条第一、三項は「庶民」にとつて、「資産ストック(預貯金)」保障権の意味を有するのである。なんとなれば、「庶民」にとつて、財産とは、若干の家財道具を除いて、預貯金しかないからである。

上告人等が、本件訴訟において、「経済生活安定権」を侵害されたと主張するのは、正に上述の意味合いにおいてである。預貯金を減価させられることは、「庶民」の経済生活を破滅に導くことに他ならない。「庶民」は、資産ストック保障請求権を有していると云わねばならないのであつて、この事理は、前述の憲法諸規定に具体的に顕現されていると云えよう。郵便貯金法第一条は右理念を宣言したものと解さなければならず、同一二条二項は、預貯金減価分を国家の責任において、具体的に補償する規定と解さなければならないのであつて、単に、訓示的規定と解すべきものではない。

原審判決は、この点において、法令適用の誤りを侵しており、明らかに判決に影響を及ぼすものと云えよう。因みに、郵便貯金は、その運営において、国の財政投融資部門に組み入れられ、巨大な利便、利益を獲得し、他方において、「庶民」には、それに相応する預金減価をもたらす結果となつているのである。右運営の実情に鑑みても、郵便貯金法に対する右法的解釈こそ実質的に正しいものと云えよう。

第三、(結語)

以上のとおり、原判決は、多面において、法令の解釈適用を誤つており、明らかに判決に影響を及ぼしているものと云わざるを得ない。そして、右誤りは、原審の審理不尽に依るところが極めて大であり、まことに遺憾とせざるを得ない。本件訴が経済政策学という専門的知識に深くかかわつているところから、右審理不尽が結果したと云えるが、この事も、今少し、原審裁判所が上告人の主張を受納する努力をなし、適宜の釈明権を行使したうえ、十分な証拠調べをなすならば、容易に克服し得たものであつた。

斯る意味において、原審判決を破棄のうえ、本件訴訟を高等裁判所へ差戻されるよう強く要請するものである。

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